もつ処 天地人と私の歴史
福岡の美食に感動
1976年、山口県防府市で仕出し屋の次男として生まれ、高校卒業まで過ごす。
幼少期の夏休み時には、父の経営する仕出し業や弁当業務を午前中は必ず手伝うという教育を受け、まわりで遊んでいる友達を羨ましく思い、飲食業関係全般に嫌気が差す。特に、仕出し業務の冠婚葬祭で土日も自由に遊ぶことが出来ず、ますます反抗的になる。
バブルが崩壊し、徐々に父の会社が傾きだし、晩御飯は弁当業務での残り物になる。
いつも地元から出たいと考えてはいたが、学がなく、高校卒業後単車の免許を取って、なんとなく福岡に行く。
福岡では、お金はないが、そこそこ楽しめた。当時は親不孝通り全盛期で、何をするわけではないけど、いつも出入りしていた。夜の若者を観察していた気がする。田舎にはない、県内外の人との交流をそこで学び、たくさん教えてもらった気がします。
その中で、福岡、博多の飲食に感動する。
まずはラーメン。田舎者にとって、当時は長浜、一風堂、一蘭の美味さは衝撃的だった。替え玉、麺の硬さを選択すると言う文化を初めて知る。一蘭は、個室ラーメン以上に有名人、芸能人御用達かの様な、ありとあらゆる場所にサイン色紙を張り巡らせたプロモーションに感銘を受けた。また、連なる屋台での人との交流で食事も楽しいものでした。焼き鳥なんかも地元と違い、鶏より豚バラがメインな焼き鳥屋が多かった。当時の先輩曰く、バラによってその焼き鳥屋の評価が決まると。それ以外にグルグル鶏皮串も有名ですね。
そして、もつ鍋である。人生でもつ鍋というものを知らなかった私としては、初めて食べた時の感動を今でも覚えている。そこは越後屋と言う店だった。当時、何が美味いか表現できなかったが、兎に角美味しくて、夢中で食べた。
もつ鍋にハマり出した私は、スーパーでダイショーのもつ鍋スープを見つけ、よくある黄土色がかったホルモンを買い自宅でもつ鍋を作る。楽しみでならない、あのもつ鍋を自宅でも食べれるのだから、、、
キャベツを切り、ニラを用意して、全てを鍋にぶち込んでグツグツグツ。。。。完成である。簡単
パクリ、、むしゃむしゃ。。。
ま、まずい、、なんだこれ。。。
この時知った、お店のもつ鍋とスーパーなどで売ってる簡易的なもつ鍋の違いを。。
正直、簡易的なもつ鍋しか知らない場合、もつ鍋を美味さを知らず、敬遠し嫌いになるなぁと。。
しかし、どうしても自分で本場のもつ鍋を作りたくて、老舗やま中、おおいし、越後屋、楽天地など何度か通い少しずつ研究した。全国区では醤油ベースなもつ鍋だけど、キラーコンテンツとしては、どこも味噌ベースが人気で、私も味噌ベースを研究した。
何年かかったかな、、納得できる出来栄えの頃には25,6位になっていました。その頃、父の体調が芳しくなく、闘病の末、50代前半で他界。傾いていた父の会社は多大な借金もあり、仕出し業と未来のない会社を感情的になった兄が継いだ。母や妹も手伝いをし、必死に借金を返済していた。私も福岡でどことなく疲れていて、地元の親友の後押しもあり、Uターンし、兄を手伝った。
仕事は朝早くから、仕込みをし、大体昼過ぎには終わる営業態型で、暇な夕方あたりに地元の飲食事情を知る為に居酒屋にバイトしてみると結構地元の飲食も馬鹿にはできないなと感じた。特に鮮魚。魚に関しては福岡に負けないくらい美味しい魚介類が四季折々楽しめると思った。
続く・・・